災害悲話:大生寺で修行に励んだ少年僧侶の宿命
災害悲話(物語)
筑後の国の大生寺,14歳になる若い僧侶が修行に励んでいました.享保5年の梅雨(つゆ),筑後の国は,数日も雨が降り続いていました.そんなある日,朝から大雨となり,正午頃,突然,激しい雷とともに,お寺が強い揺れに見舞われました.異変を感じた僧侶たちは,お堂(賓頭盧堂)の様子を見に行ったところ,尊者の仏具が倒れていることに気づき,14歳の僧侶が尊者の仏具を元の場所に戻そうと作業を始めました.その時です.お堂の裏にある山が突然崩れ,3m近い大きな岩が,お堂の軒口を突き破って落ちてきました.お堂は破壊され,多くの仏具が流され,また,土砂に埋まってしまいました.
僧侶たちは急いで避難しましたが,14歳の僧侶の姿がありません.僧侶たちは,彼が崩れてきた土砂に埋まり,身動きが取れなくなっているではないかと心配し,すぐにでも彼を助けようとしましたが,外は大雨,またいつ崩れてくるかもわかりません.何もできないまま時間だけが経っていきました.僧侶たちは心配で心配でたまりませんでしたが,翌日天気が回復し晴れてきたので,早速,彼を救助するため,土砂に埋まったお堂に向かいました.助かってほしいと願いながら,僧侶たち,和尚さん,みんなで必死に探しましたが,結局見つからず・・・・そこで流川村の人々にも応援を頼み,総出で掘り起こす作業を続けました.そして,14歳の僧侶が行方不明になってから7日目,やっと見つけ出すことができました.しかし,不憫(ふびん)なことに,お堂の柱にしがみついたまま,崩れ落ちてきた岩に挟まれて亡くなっていました.手足はズダズダ,背骨も後ろに曲がり,悲惨な最期でした.そこに居合わせた僧侶たち,和尚さん,助けにきてくれた流川村の人々は皆涙し,大きな悲しみに包まれました.
これは,14歳の僧侶の逃れ難き運命だったのだろうか.和尚さんは葬式の折,ご両親に,彼が僧侶になった事情を尋ねたところ,ご両親は次のように語りました.「私たちは,息子と豊後の国の玖珠郡に住んでいました.息子を大切に育てていましたが,将来のことが気になり,7才か8才の時だったと思いますが,地元で名のある易者に占ってもらいました.すると,易者からは,息子さんは水難で命を落とすと言われ,私たちは驚き,落胆しました.大事に育ててきた息子が水難で命を失うなんて,とても受け入れられません.易者にすがって,どうやったら水難から逃れることができるのか聞きました.すると,易者は,息子さんを出家させなさい,そうすれば長生きするであろうと・・・・・このような委細(いさい)あって,大生寺に頼み込んで息子を預けることにし,僧侶として生きていくことになったのです.」
その後,息子さんは剃髪(ていはつ)して出家し,墨染(すみぞめ)の法衣(ほうえ)を身に着け,勉学を怠ることなく修行に励みました.それなのに,この水難で身を滅ぼしてしまうとは何の因果であろうか・・・和尚さんは悲しみに耐えられませんでした.その和尚さんも病にかかり,次第に気を病み,ほどなく38歳でお亡くなりになりました.
この水難で,14歳の僧侶だけでなく,和尚さんまでも失い,お堂も破壊され,仏具も流されてしまいました.後に残された僧侶たちは皆途方に暮れ,時だけが無情に過ぎていきました.何とも八方塞がりで希望が見えない日々が続いていたある日,仏の力があったのか,なんと,近くの寺田から尊者の仏像が見つかりました.僧侶たちは皆驚き,大いに喜び,尊者の仏像を新客殿に移して手厚く祀ったとのことです.これに勇気をもらった僧侶たちは,大生寺復興の第一歩を踏み出しました.
災害悲話(物語)の作成にあたって
壊山物語の流川村のページで紹介したように,14歳の若い僧侶が,裏山から流れてきた大きな岩に挟まれて息絶えるという,痛ましく,悲しい出来事が記されています.そこで,この悲しい出来事を災害伝承として残すために,原文の現代語訳に基づき,上記のように物語風に作成しました.ただし,作家さんみたいに上手く表現できないので,資金があれば,絵本作家にお任せして,文章やイラストなどを制作して頂きたいのが本音です.
物語の作成にあたっては,できる限り,壊山物語に記された内容に基づきますが,僧侶たち,14歳僧侶のご両親,住職さんの気持ちや行動を想像し,それを反映した形で,行間を埋めています.また,当日の状況を反映させるため,壊山物語だけでなく,福岡県近世災異誌(福岡県の江戸時代における災害記録)(※1),大村復興碑,清水寺法忍記録に記された事項も使っています.
降雨の状況については,福岡県近世災異誌(※1)と大村復興碑によると,旧暦6月19日から雨が降り出し,21日に豪雨になっています.豪雨になった時刻は,清水寺法忍記録(※2)によれば朝御飯の後と記されているので,朝早い時間帯だったと思われます.土石流が発生し始めた時刻に関しては,大村復興碑によると,正午と記されていました.そして,遺体が見つかった日は,清水寺法忍記録(※2)によると,被災した日から7日目だったと記されています.
※1 福岡県近世災異誌:立石碞,福岡県近世災異誌刊行会,713p, 平成4年(1992).
※2 吉井町誌 第三巻:吉井町,吉井町誌編纂委員会,713p, 昭和56年(1981).
流川地区と大生寺の土砂災害リスク
流川地区は,土石流や崖崩れだけでなく,地すべりのリスクもあります.豪雨時に気を付けるべきリスクは土石流や崖崩れです.大生寺に目を向けると,東側の建物(賓頭盧堂)では,南側の谷からやってくる土石流によって被災するリスクがあります.一方,西側の建物では,南側の急傾斜地からの崖崩れで被災するリスクがあります.享保5年(1720)の土砂災害では,大生寺の14歳の僧侶だけでなく,39歳の男性も亡くなっています.その男性は10日以上行方不明で,発見された時には犬や烏に遺体を啄まれ,以前の面影がなかったと記されています.男性の家族は悲嘆に暮れ,涙を流して供養したようです.
次に,14歳の僧侶に襲いかかった大きな岩は土石流が運んできたものなのか,それとも,崖崩れで落ちてきたものなのか考えてみましょう.壊山物語には岩が落ちてきたとしか書かれていません.そこで,他の文献から探ってみます.石原家記には,「大生寺佛殿山抜大石流出築埋小僧壱人死」と山抜と表現しています.また,同じ文章内に,「安富山汐にて一村民家竹木迄洗埋大石を積重」と安富の土石流を示した山汐が記されています.つまり,山抜は,山汐は別物で,崖崩れのことを示しているのではないかと推測します.一方,田村家歳代旧記には,「大生寺山汐僧壱人築埋」とあり,土石流だったと記されています.結局,古記録からはどちらが原因かわかりません.
そこで視点を変え,14歳の僧侶が亡くなった当時のお堂(賓頭盧堂)と現在の土砂災害警戒区域との関連から探ってみます.写真にある賓頭盧堂は,貞享4年(1687)に博多の聖福寺から移築されたものです.その位置は変わっていないとのことなので,彼は現在の賓頭盧堂の位置で被災したことになります.その位置は土石流が直撃する土砂災害特別警戒区域(レッドゾーン)に指定されていることから,彼の命を奪った大きな岩は土石流によって運ばれてきたものとわかりました.
以上述べたように,流川村では享保5年(1720)に酷い土砂災害に見舞われましたが,享和2年(1802)にも土石流によって被災しています(年代記:塩足村庄屋記録 ※1).また,大生寺は,吉井町誌第三巻(※2)によると,万治2年(1659)と萬延元年(1860)に被災したことがわかっています.このように,大生寺を含む流川村は,裏山からの土石流で何度も被災してきた歴史があるので,この災害悲話を地域で共有し,さらに後世に確実に伝え,このような悲しい出来事が起こらないように,将来起こり得る災害に対して,しっかり備えていくことが大事です.
※1 年代記 塩足村庄屋記録 筑後旧家記録:七隈史料刊行会,七隈史料叢書,269p, 昭和45年(1970).
※2 吉井町誌 第三巻:吉井町,吉井町誌編纂委員会,713p, 昭和56年(1981).