生葉郡 安富村(最大の被災地)


 被害状況

現象:土石流,大石流出,石川原,4.5~4.8mの土砂堆積(別文献:有馬文書記録より)

建物:人家は谷底にひっくり返る,または土砂埋没,30数棟のうち人家3棟のみ残る

田畑:記載はないが,石川原になったことから全滅と考えられる

大木:根こそぎ倒れて散乱,その上に石砂覆う

死者:30人(石に当たって死亡など) 行方不明者:2名 

遺体の状況: 28名の遺体の判別不可能(現在で言うDNA判定をしないと誰なのかわからない)

負傷者: 砂に埋もれて足がズタズタになった女性,他にも多くいたのではないか?

悲話:首のない我が子を必死に介抱する母親の話など

馬 :13匹死亡

 

江戸時代後期の弘化4年(1847),郡奉行の木村重任が筑後の村々を巡ってインタビューした際に

書き留められた「延村書留」(※)によると,享保5年7月九州北部豪雨の被害は下記の通り:

 

死者:村民86人中46名死亡(壊山物語での死者30名,関連死が十数名?) 

土砂堆積:村内(約3.6m),山辺往還北側(約120cm),山辺往還南側(約60cm)

 

※ 延村書留Ⅱ:木村三郎重任,解読編集 田中俊博,平成9年(1997).

 

うきは市富永 安富地区・屋形地区の位置は下記からご確認ください.

 

 

 

 現代語訳 原文・翻刻文

この村は谷のそばにあったので,殊の外大きな石が流れてきた.そのため,人家は谷底にひっくり返って,老若男女30人が亡くなり,28人の遺体は誰なのか判別できなかった.2人はいまだに行方がわからない.


 木に登って助かった者や,流される家にしがみついて助かった者もいた.命は助かったが医術が及ばず亡くなった者が数人,大きな石に当たって死んだ馬13匹,あるいは,首がなくなった者もいた.遺体が誰なのかわからなかったが下帯を見て身元が判明した者もいた.三七日(みなのか,21日目),五七日(いつなのか,35日目)の法要が過ぎた頃,鳶や烏が集まっていたので,そこに出向いて掘ってみると,バラバラになった遺体が見つかった.それをかき集めて名前を付けて弔った.


 18歳か19歳くらいの女性が,子供を抱きながら砂に埋もれ,空しいことに両足がズタズタになっていた.また,28歳か29歳くらいの女性が子供を抱きながら,渦巻く波に15~16丁(約1700m)流され,田んぼの中の杭が衣服の袖を貫いた状態で今にも息絶えそうになっていた.その母親は,石が当たって首がなくなった我が子を抱いて,我を忘れてなりふり構わず介抱していた.母親の怪我は,治療の甲斐もあって次第に良くなっていった.その他,家の柱や基礎が壊れ,家ごと田んぼの中まで漂流し,屋根に登って何とか助かった者もいた.


 人家は30数軒あったが3軒だけとなり,残りの人家は石の川原に埋もれてしまった.この村には75~90cmの太さの大木がたくさんあったが,根こそぎ倒れて散乱し,その上に砂や石が覆いかぶさって,以前とは似ても似つかない姿となってしまった.この村が今回の山汐で最も被害が大きかった場所である.

 


 

 

 

 

 安富村・屋形村 土石流による大惨事 人々の悲しみと絶望

明治時代以降の安富地区・屋形地区の被災を見ると,昭和21年(1946)には屋形地区,それから7年後の昭和28年(1953)の西日本水害では安富・屋形両地区に土石流が襲ってきました.両事例とも犠牲者がなかったことは幸いでした.しかし,時代を遡ると,享保5年7月九州北部豪雨が発生し,安富村と屋形村を襲った土石流で合計50名以上の死者を出す大惨事になりました.この時の豪雨で現在の福岡県全域が被災しましたが,筑後国の生葉郡(現在のうきは市)の被害が酷かったことが複数の古記録に記されています.また,壊山物語の記載では,安富村と屋形村の被害が最も酷かったことが記されていることから,両村が当時の災害の中心だったことが伺えます.

 

破壊し尽くされた安富村と屋形村の被害内容を見ると,目を背けたくなるほどの悲惨な内容です.人的被害に見ると,両村ともに死者の身元がわからないほど遺体が損傷しました.現在で言うDNA判定でもしない限り身元が確認できない状況だったと想像されます.また,屋形村では怪我で生き残った人がいましたが,その多くは1週間以内に亡くなっています.建物・田畑の被害を見ると,安富村で3~5m,屋形村で3~6mの土砂が堆積し,人家と田畑はほぼ全滅しました.以上の被害内容は,安富村と屋形村を襲った土石流の衝撃が如何に凄まじかったかを物語っています.

 

一方,災害に遭った人々の悲しい話も記録されています.安富村では,母親が石が当たって首がなくなった我が子を抱いて,我を忘れてなりふり構わず介抱する様子が記されています.また,屋形村では,生き残った男が孫や妻の行方がわからず,以前とは全く違った姿になった石川原に入って,人目を省みず嘆き叫ぶ.....筆者はその様子を「何とも例えようがない」と記しています.このように,家族を奪われた人々は悲しみと絶望感に襲われます.何もかも破壊されて生きる糧もなくなり,心理的にも追い詰められて心がズタズタになっていきます.

 

以上,壊山物語は,物理的な破壊状況や犠牲者の数で示される土石流の衝撃だけではなく,人々の悲惨な状況についても隠すことなく,ありのままを克明に伝えています.その事実は,安富地区,屋形地区だけでなく,耳納山麓に生きる後世の人々へ向けた大事なメッセージです.そのメッセージから過去の悲惨な出来事をしっかりイメージし,自分,家族,地域の人々の命を守るため,今後起こり得る災害にどのように備えていくかをしっかり考えていくことが大事です.

 

 

 

 医王山南淋寺縁起に見られる安富村・屋形村の惨状

屋形村・安富村の惨状は,筑後川の北側(現在の朝倉市)にある南淋寺の古記録(医王山南淋寺縁起 ※に記されています.「筑後一国中大破のあらましを伝え聞くも甚だ恐ろし」とあるように,衝撃的な出来事だったことには間違いありません.

 

南淋寺縁起によると,耳納山で土石流が発生し,大岩とともに古木が流れてきて,屋形村・安富村が被災し,家屋敷は一つも残らず,死人40~50人に及び,牛馬多く流死,また石に当たって死んだと記されています.壊山物語では,30数軒土砂に埋まって3棟のみ残っていること,両村合わせて少なくとも40名の死者が出たことが記され,南淋寺縁起とほぼ同じことがわかります.

 

人家の被害では,大石が壁を打ち破って財宝が悉く流失して,土砂が堆積していたとのことです.一方,人的被害については,壊山物語によると,最初の土石流の衝撃で多く人々が死亡しましたが,南淋寺縁起には,後日被災した家内を捜索した際に助け出された者がいたと記されています.その多くは半分死半生で,数日砂石に埋もれて何も食べていませんでした.その後,身も心も消耗して悉く死んだと記されています.

 

この災害では,家屋敷が流れるだけでなく,田畑が使えなくなるほどの荒廃(永荒:えいあれ)しました.生きる糧がなくなった人は,やむなく村を去った人が多く,日々10人,20人と連れだって逃れてきたとのことです.屋形村・安富村の人々だけでなく,耳納山山麓の村々で被災した人々が,筑後川を超えて,南淋寺のある地区にも避難してきたのかもしれません.南淋寺縁起では,その姿を戦国乱世の落ち人のようだと例えています.当時は,住民同士で助け合っていたと思いますが,現在のように避難所があるわけではないので,生きる糧がなくなった状況は絶望に近かったのではないでしょうか.壊山物語,南淋寺縁起には,人々の苦しみや悲しみがひしひしと伝わってきます.災害で被災し絶望する人々の様子は,今も昔も同じです.

 

この時,南淋寺も被災しています.南淋寺の下を流れる川の上流から,黒水飛泉の如く土石流が襲ってきて,3つの井戸が埋まり,客殿,清香庵,招集庵が被災し,千人橋が崩れ落ちました.田畑も使えなくなる程荒廃したとのことです.そして,300年を経て,再び,平成29年九州北部豪雨に見舞われ,南淋寺は被災し,近隣で1名の方がお亡くなりになりました.

 

※ 医王山南林寺縁起:福岡県朝倉町教育委員会,24p,昭和48年(1973).

 

 

 

 安富村はどこにあった?

現在の安富地区は,現在の県道151号線(当時の山辺往還)のすぐ北側にありますが,当時の安富村も同じ場所にあったのでしょうか?実は,吉井町誌第一巻の山汐物語(※1)によると,現在の集落は災害後に再建されたと記されています.実際に,山曽谷川の上流に屋敷跡などが多く発掘されていたとのことです.

 

さらに,弘化4年(1847)に村々の出来事を記録した延村書留(※2)によると,享保5年7月九州北部豪雨の際,土石流が発生して,安富村内で約3.6m,山辺往還北側で約1.2m,山辺往還南側で約0.6mの土砂が堆積したと記されています.つまり,現在の位置にある安富地区では,約1.2mの土砂が堆積したことが示されています.一方,村内では約3.6mの土砂が堆積しているので,現在の安富地区と当時の安富村は同じ場所ではないことがわかります.3.6mも堆積したということは,当時の安富村が土石流の被害を受けやすい山曽谷川の上流側(南側)に位置していたことが伺えます.下図に示されるように,百年公園から上流部には段丘面と山曽谷川に沿った谷があり,谷の周辺部にも開けた場所があります.現在,百年公園の南側では,山曽谷川沿いに人家はなく,比較的安全な段丘面に人家があります.このあたりが当時の安富村だったではないかと考えられます.

 

当時,谷よりも高い位置にある段丘面に人家が集まっていれば比較的安全だったと考えられますが,実際には大惨事になっています.やはり谷に近いところに人家が集まっていたのでしょう.壊山物語によると,安富村の人家30棟中27棟が土石流の直撃を受けて谷底にひっくり返り破壊されました.また,医王山南淋寺縁起(※3)によると,人家は一つも残らなかったと記されています.このことから,当時,段丘面よりも山曽谷川に沿って人家が集中していたのではないかと推測されます.もちろん,当時と地形が変わっていると考えられるので,実際にどんな場所だったのかはわかりません.繰り返し発生した土石流で土砂が一気に堆積したでしょう.また,長い年月の間に谷の水が土砂を運んできたでしょう.地形は変わって当時の姿はわかりませんが,山曽谷川に沿って,30棟の人家が建つ程度の開けた場所があったのでしょう.

 

※1 吉井町誌 第一巻:吉井町,吉井町誌編纂委員会,314p, 昭和52年(1977).

※2 延村書留Ⅱ:木村三郎重任,解読編集 田中俊博,平成9年(1997).

※3 医王山南林寺縁起:福岡県朝倉町教育委員会,24p,昭和48年(1973).

 

 

 

 

 

 享和2年(1802)の土石流災害

公用見聞録(※1)によると,享和2年(1802)に筑後で大洪水,また,上妻郡の上横山・下横山,秋月領,高良山,生葉郡の屋形村・安富村で山汐(土石流)が発生し,屋形村で人家・馬が埋まったことが記されています.また,江戸時代後期の延村書留によると,安富村では,旧暦6月1日朝四つ時(午前10時頃)に土石流が発生し,宮の馬場というところで,人家の床よりも上に1尺(30cm)の土砂が積もっています.死者はいなかったようです.

 

この時の豪雨では,年代記 塩足庄屋記録(※2)によると,耳納山地では,山本郡の泉村(上・中・下)から生葉郡の流川村まで土石流の被害はあったものの,人家への被害は少なく,人や馬に被害はなかったと記されています.

 

※1 公用見聞録:豊田丈助,豊田三郎(発行)・井上農夫(解読),105p,昭和49年(1974)

※2 年代記 塩足村庄屋記録 筑後旧家記録:七隈史料刊行会,七隈史料叢書,269p, 昭和45年(1970).

 

 

  昭和28年(1953)6月26日 富永地区(屋形,安富)の土石流災害

昭和28年浮羽郡水害誌(※)には,昭和28年(1953)西日本大水害の際に起こった富永地区(屋形,安富)の土石流について述べられています.6月26日午前9時頃,安富の土採り場が突如崩れて,崖下の民家1棟が押し潰され,1名の重傷者が出ました

 

浮羽郡水害誌によると,安富は享保の山汐で全滅したところで,山曽谷川は下流の川幅が狭く,かつ,急角度に屈曲しているため,水はけが悪く毎回決壊氾濫を繰り返していると記され,この災害で10ヶ所決壊したとのことです.

 

 

※ 昭和28年浮羽郡水害誌:浮羽郡町村長会・浮羽郡町村議長会・浮羽郡公民館連合会,120p,昭和29年(1954).