水縄校区では,壊山物語の中に,大蛇,狐妖怪,牛鬼といった魑魅魍魎たちが登場します.魑魅魍魎たちのゆかりの地が土石流によって被害を受けたことを踏まえて,壊山物語に取り上げられ,説明が加えられています.そのお陰で,どの谷が崩れたのかについて,その候補をある程度絞ることができるので,大変有益な情報です.
石垣村を襲った土石流は牛切谷から流れ出てきたことが記されています.牛切谷は牛鬼伝説に由来する谷で,そこに棲んでいた化け物(牛鬼)が人に危害を与えるので,観音寺中興の祖,然廓和尚が討伐したという伝説が地元に残されています.これは平安時代の話です.討伐に使った剣と打ち落されたと伝わる手首が石垣山観音寺に伝わっています.
二田村も土石流の被害が出ていますが,その中に七谷七郎という妖怪の話が差し込まれています.彼は二田村背後の山に棲んでいて,上三郡(山本,竹野,生葉郡)の狐妖怪の統領だったと記されています.災害当時,庚申祭礼の日に,男女が誘いあって,月の出や日の出を待って,七谷七郎の廟所があった場所に出向いて身を清める伝統(月待日待の信仰)がありました.現在もその伝統が続いているかどうかはわかりません.廟所が七つの谷が落ち合う場所にあったので,結局,土石流に流されてしまったようです.
益永村では,長さ140cm,胴回り125㎝の大蛇の死骸が,かんかけ峠から流れてきたと記されています.土石流で頭と尻が切れてしまったようです.人々がその姿を見て身の毛がよだつほどだったと記されているので,よっぽど気持ち悪かったのでしょう.わざわざ久留米藩の役人が見分し,大蛇と判断したとあります.真剣に吟味したのではないでしょうか.そんな巨大な蛇は国内にいないので,この話はもちろん尾ひれがついています.しかし,当時は,土石流を大蛇と結び付けて考えることは常識的な話だったのかもしれません.
森部村にも大蛇にまつわる話が残されています.その大蛇は大谷の東側の古い池に棲んでいました.大蛇が里に降りてきては人々に危害を加えていたので,勧進僧(各地を巡って説法を行い,人々から銭や米の寄付を受けた僧)が法華経千巻を書き,大蛇が棲んでいる所に埋めました.そのため,仏経が恐ろしいのか,たちまち大蛇は麻生池へ逃げ去ったと記されています.麻生池とは,八女市星野にある麻生池のことだと思われます.実は麻生池も大蛇が棲んでいたという話が伝わっていますので,何らかの関連があるのかもしれません.結局,大蛇が棲んでいた池の脇が崩れて大谷に崩れ込み,土石流となって森部村を襲いました.池脇が崩れたということは,池もなくなったのでしょう.