災害地名 蛇抜の由来(広島市西区己斐地区) 天明8年土石流 

 江戸時代以前,土石流が起こると,山汐,蛇抜,蛇崩,山抜,龍抜,山つえなどの表現を使って災害記録を残しました.特に,蛇と繋げた表現は古来より多くの史料の中に残されており(※1),谷に沿って土砂が流出した様子を大蛇が谷に沿って下ってきた痕跡と考え,「蛇抜」と呼ぶことがありました.その表現がそのまま地名になっていることがあります.例えば,長野県南木曽町には蛇抜沢という地名が残されており,過去に土石流が起こったことを現在に伝える災害地名となっています.ここでは,土石流災害が頻繁に起こってきた歴史を持つ広島県の災害地名の一つ,広島市西区己斐地区に残る小字地名「蛇抜」について紹介します.

※1: 災害文化史の研究,笹本正治,高志書院,392p,2003. 

 まず,広島県内で起こった土石流災害の歴史を辿ると,過去40年間では,昭和63年(1988,旧加計町),平成11年(1999,佐伯区・安佐北区,呉市),平成26年(2014,安佐南区・安佐北区),平成30年西日本豪雨(2018,広島県南部)があり,多くの犠牲者が出ています.さらに遡ると,大規模なものでは,終戦直後の昭和20年枕崎台風(1945,呉市など),大正15年(1926,広島市周辺地区),嘉永3年(1850,安芸国・備後国),寛政8年(1796,安芸国・石見国)があります.小規模な土石流災害を含めると,広島県では土石流災害が何度も繰り返し起こってきたことが伺えます.

 己斐地区は広島市の西側に位置し,鎌倉時代以降栄えた古い歴史を持つ町です.現在は山の斜面を造成した住宅地が広がっており,以前の姿とは全く異なった景観となっています.小字地名「蛇抜」は,室町時代・戦国時代に機能していた己斐(平原)城跡の南東側の斜面に拡がる住宅地一帯を指します.その西側の丘陵には,その名前を冠した蛇抜墓地があります.しかし,現在は宅地化が進み,蛇抜を連想されるものは何もありません.

 

 

 蛇抜は土石流に由来するので,かつて谷が存在したかどうかを調べることが必要です.「今昔マップ on the web」を使って,明治時代の地図と現在の地図を比較してみると,現在の地図には宅地化が進み,それ以前の面影は全くありませんが,明治時代の地図には己斐城跡からの南側に延びる谷が確認できます(注).その谷の位置を国土地理院の空中写真(1961~1969)に重ねてみると,下図のように,確かに谷が存在します.したがって,宅地化が進むずっと以前に土石流が発生し,その事実が地名に残されたのではないかと推測されます.そこで,己斐地区に残る災害史料の中に蛇抜の由来がないか広島市立図書館で探したところ,己斐地区に関する大量の郷土資料が出てきました.それは,地元の歴史研究会の方々が己斐の歴史を調べた貴重な資料です.丹念に確認してみると,己斐の歴史をさぐる(※2)とわがまち己斐(※3)の中に,蛇抜の地名に関して徹底的に調べた資料があったので,その内容に沿って蛇抜の由来を考えてみることにします.

(注)明治時代の地図は,基本測量成果に該当し,国土地理院の承認なく複製・使用ができないため,現在このHPで紹介することはできません.「今昔マップ on the web」⇒ 広島を選択 ⇒ 現在と明治時代(1894~1899)の地図を選択してズームし,両者を比較してみてください.宅地化前の己斐地区の様子がわかります.

 

 

 最初に,江戸時代の己斐村で起こった土石流災害に関する史料を調べてみます.己斐の歴史をさぐる(※2)とわがまち己斐(※3)では,佐伯郡己斐村國郡志御用二付下調書上帳に沿って蛇抜の由来を調べています.その史料は,己斐村の地形,村の施設,村の文化・風習,神社,寺,古城跡,村の歴史などを記した己斐村の地誌です.この種の下調書上帳は,広島藩領の地誌(芸藩通志,文政8年,1825完成)を編纂するために,己斐村を含め,領内の村々に命じて作らせたものです.己斐村の下調書上帳は,新修広島市史第6巻資料編その一(※4)に紹介されており,この中に,蛇抜の地名の由来に繋がる記述が残されています.その一部を書き出すと,「当村平原山の内天神原と申す所,天明八年洪水にて山くずれ横十間たて百二十間深さ八間余抜け落ち,赤土谷と申す所の水田押流され,上堤と申す所一面に埋り,下地とは三尺余高くなり・・・・」とあります.つまり,天明8年(1788)に,己斐城跡の本丸を頂上とする平原山の中で,天神原が崩れて土石流化し,赤土谷の水田を押し流して,現在の太田川放水路に近い上堤では90cm程度土砂が堆積しました.崩れた土砂の体積は,横18m×縦218m×深さ14m=約55,000m3で,その後発生した土石流が谷を削りながら下流へ流れたと考えると,令和3年(2021)に発生した熱海土石流の土砂量(約55,000m3)に匹敵する規模か,それ以上だったことが伺えます.

 天明8年の土石流に関して他の文献を探してみると,中山(2020)(※5)に紹介されていました.それによると,天明8年旧暦6月13日の記述に「植木屋次郎兵衛宅之上山潰崩、次郎兵衛庭牛馬屋悉く圧候」(村上家乗)とあり,己斐村の植木屋次郎兵衛宅の牛馬屋が土砂に潰されています.ちなみに,旧・広島ぶらり散歩(※6)によると,江戸時代初期に摂津国から来た植木職人の津ノ国屋次郎右衛門は己斐村の上堤に居を構え,その子孫は定住して,その初代が「植木屋次郎右衛門」を名乗ったとあります.

※2 桂原天神,井上 清,己斐公民館講座 己斐の歴史をさぐる,No.58-11, 昭和58年(1983).

※3 桂原天神,己斐の歴史研究会,己斐公民館 己斐の歴史講座 わがまち己斐,S62-6, 昭和62年(1987).

※4 佐伯郡己斐村國郡志御用二付下調書上帳,広島市,新修広島市史,第6巻 資料集その一,昭和34年(1959).

※5 近世広島の豪雨災害と社会的応答,中山 富広,内海文化研究紀要 , 48 : 1 - 20,2020.

※6 旧・広島ぶらり散歩

 

 

 

 次に,地名について考察してみます.ここで,上と下の図に,小字地名の範囲(青線)と己斐村の下調書上帳に記された当時の地名(上堤,赤土谷,天神原)の推定位置を示しました.まず,90cm程度土砂が堆積した上堤という地名ですが,現在の小字として残っているだけでなく,芸藩通志の編纂のために提出された己斐村絵図(下図左)にも記されています.上堤は現在の西広島駅から己斐橋までの間の地区で,その中央をJR山陽本線が走っています.したがって,上堤に繋がる谷を調べることで土石流を引き起こした谷が特定できます.その候補として,上図と下図の白抜きと黄色の矢印で示す5つの谷が考えられます.天神原が崩れて発生した土石流は赤土谷を通って上堤に達しているので,まず,赤土谷について考えてみます.下調書上帳には赤土谷という小名が記されていますが,己斐村絵図には記されていませんでした.場所を示す具体的な手ががりは見つかりませんでしたが,己斐の歴史めぐり(※7)に赤土谷の位置が記されていたので,ここでは,その位置を赤土谷とみなします.その場所は,黄色の矢印で示される谷の下流部,つまり,上堤に近い谷を指します.その谷には水田があったようで,棚田のような景観だったことが伺えます.その水田は土石流によって流失しています.

 一方,土石流の発生源の天神原については下調書上帳にも記載されておらず,全く手がかりはありません.しかし,天神原が赤土谷上流に位置することは間違いないこと,天明8年(1788)の土石流が発生する前の寛永元年(1748)まで己斐城跡の東郭に桂原天神が鎮座していたことから,天神原は己斐城跡の南東側に沿った尾根付近ではなかったかと考えられます.一方,己斐の歴史をさぐる(※2)とわがまち己斐(※3)の考察では,天神原は蛇抜墓地のある尾根に沿ったところと推測し,上記の考察と概ね一致します.両郷土資料では,さらに己斐村絵図の中に描かれている謎の丸形の穴に着目しています.この穴の正体は不明ですが,己斐城跡の南東側に位置していることから,そこが崩れ落ちた場所,つまり,天神原ではないかと推測しています.実際,己斐城跡の南東側は蛇抜地区を指し,2つの谷(黄色の矢印)とそれに挟まれた尾根が存在します.

※7 己斐の歴史めぐり,企画編集:己斐の歴史研究会,制作:西区地域起こし推進課,2019.

 以上の考察から,現在の小字地名の蛇抜を指す地区は過去に土石流が発生したことがわかりました.己斐村の下調書上帳は天明8年の土石流が発生してから少なくとも30年が経過した後に作成され,災害の記憶は比較的が新しかったはずですが,蛇抜という地名は記されていませんでした.記録には残っていませんが,当時の人々は蛇抜と呼んで後世に伝えていたのかもしれません.現在,小字地名として蛇抜が残っていることから,己斐村の下調書上帳の作成以降のどこかの時点で,土石流の被害があった土地にちなんで蛇抜という小字地名を付けたのではないかと推測されます.この点については,己斐地区の地名の変遷を調べると詳しいことがわかるかもしれません.

 蛇抜の地名が残る地区は己斐東二丁目に属しています.下図にように,現在の己斐東二丁目では,急傾斜地の崩壊(崖崩れ)のリスクがありますが,高度成長期に谷が埋められ,かなり高い所まで宅地化したため,現在,土石流の名残を見つけることができません.実際,土石流に対する土砂災害警戒区域には指定されていない地区になっています.一方で,広島市全域の宅地分布を見ると,斜面に住宅地が数多く存在することがわかります.平地が少ない広島市は,高度成長期以降,山の斜面を造成してきた歴史があり,多くの地区が土砂災害危険区域に指定され,背後の山から襲ってくる土石流のリスクを抱えています.今後,地球温暖化で豪雨災害が激甚化することが予想されているので,斜面の造成地区に住む多くの住民は,いつか必ず起こる土石流に備えて防災意識を高め,どこに,どのタイミングで,どのように避難するかをシミュレーションしておくことは必須です.最近は災害と無縁でも数百年遡ると酷い災害が起こっていることがあるので,過去の災害の事実を掘り起こし,また,災害地名があればその由来を調べて,ここで一体何が起こるのか,どんな悲惨なことが起こりうるのかイメージできるようにする地域の取り組みが重要になってきます.