停滞性の線状降水帯の威力
2014年8月19日夜から20日明け方にかけて,豊後水道方面から暖かく湿った空気が広島県に流入し,広島県西部から北部にかけて豪雨に見舞われました.その影響で広島市安佐南区と安佐北区で土石流や崖崩れが発生し,74名の犠牲者を出す深刻な災害となりました.災害の前日19日には既に広島市西区と佐伯区で豪雨が発生していましたが,その後一旦落ち着き,下図に示すように,日付が変わった20日0時30分ごろから再び雨雲が発達し,山口県岩国市から広島県北部にかけて,南西から北東方向に走行を持つ局地的な線状降水帯が発生しました.その線状降水帯の内部では,積乱雲が岩国市付近で次々発生し,北東方向に移動しました.その線状降水帯は20日の1時頃から4時30分頃まで停滞したため,ほぼ同じ地域が豪雨に見舞われました.この時,安佐北区三入のアメダスでは,1時から4時までの3時間雨量が209mmに達し,3時台に時間雨量101mmの猛烈な雨を記録しました.その記録は,停滞性の線状降水帯の威力が如何に凄まじいかを示しています.
その線状降水帯はほぼ停滞していましたが,軸の走行を保ったまま,ゆっくり東側へ移動していきました.最大の被災地の安佐南区八木・緑井地区では20日2時までは雨が降っていませんでしたが,移動してきた線状降水帯の影響下に入った2時以降に豪雨に見舞われ,3時頃から被害報告が急激に増えました.結局,八木地区の背後にある阿武山の谷で発生した土石流が麓の住宅地を破壊し,八木三丁目では41名,緑井八丁目では4名の犠牲者を出すに至りました.
安佐南区緑井八丁目の宅地分布の推移
広島県では,昔から土石流で深刻な災害が起こってきました.近年は,2014年の災害以外に,31名の犠牲者を出した1999年6月29日(呉市,佐伯区,安佐北区)の災害,108名の犠牲者を出した2018年西日本豪雨災害(広島県南部)があります.これは,土石流の被害を受ける山麓に住宅が発達してきたことに関連があります.実際に広島都市圏の宅地分布を見ると,斜面に住宅地が数多く存在することがわかります.平地が少ない広島都市圏は,高度成長期以降,山の斜面を造成してきた歴史があり,多くの地区が土砂災害危険区域に指定され,背後の山から襲ってくる土石流のリスクを抱えています.上図に示すように,2014年の最大の被災地 安佐南区八木・緑井地区もそのような地区の一つです.以上のように,その事実は,広島都市圏の社会問題と言ってもいいほどの深刻な問題で,山麓の住宅地と人命を土石流から守るための防災対策(ソフト,ハード両面)が急務であることは言うまでもありません.
ここで,2014年の災害で4名の犠牲者を出した安佐南区緑井八丁目の宅地分布の推移(下図)を見ることにします.この地区は,何度も土石流が発生して形成された扇状地に位置していることがわかります.これは土地分類図(地理院地図 ⇒ 地理院地図を見る ⇒ 土地の成り立ち・土地利用 ⇒ 土地条件図)でも明らかです.戦後直後の1947年は扇状地の下流側に住宅地があり,全体として住宅はまばらでした.しかし,高度成長期以降は住宅が増え続け,扇状地上流の谷の出口付近にも住宅が建っていることがわかります.2009年頃には,皮肉にも住宅が扇状地状に分布していることがわかります.そして,2014年の土石流で被災し,谷の出口付近(扇状地上部)にあった住宅が破壊され,流失しました.現在は,6基の砂防堰堤に囲まれた地区となっています.
扇状地状に分布している住宅地は,地理院地図の空中写真を見ると,どこでも存在します.扇状地では土石流が繰り返し起きていますが,数年に1回起こるような現象ではなく,数百年間隔で起きてきたものです.大昔の土石流の記憶はどこかで途切れているので,忘れ去られたまま住宅が扇状地の上に建っていきます.そして,土石流に襲われた時,「まさか,ここで土石流が発生するとは思わなかった.今まで経験したことがないのに・・・」となります.数百年に1回の現象は当然経験できませんので,「まさか」となります.「まさか」にならないためにも,あらかじめ,土砂災害危険区域に指定されているかどうか,また,自宅が扇状地の上に建っているのかどうかを確認し,豪雨が予想された時の防災対策を各家庭で具体的に決めておくことが大事になってきます.土石流は発生してから数分以内で麓に達することを考えれば,起こってから逃げることは不可能に近いので,その前に避難が完了していることが命を守る前提になります.
文化元年(1804)の土石流の記録:緑井村の山抜
土石流が過去に起こっていても,長野県南木曽町のように比較的高頻度に土石流が起こっていない限り,世代を超えて災害の事実が伝わることは稀だと考えられます.一方で,古記録の中にしっかり書かれていることもあります.安佐南区八木・緑井地区の過去の土石流災害について紹介した近年の文献はありませんでしたが,広島県立文書館のホームページには,緑井村の山抜について紹介がありました.これは,広島県立文書館のスタッフが地元の古文書を探して発掘した貴重な災害史料です.つまり,記録は途絶えていましたが,発掘することで土石流の記録が人の目に触れるように蘇ったことを示しています.その土石流は文化元年(1804)に起こったものです.ここでは,どんな土石流が発生したのかを紹介します.
広島県立文書館のホームページでは,桑原家文書(※1)について紹介しています.この中で,「当夏洪水之節,緑井村植竹山抜下り二付,定用水溝筋長九町計之一円二,大造石砂埋り二相成」,つまり,緑井村植竹で山抜が発生し,定用水(八木用水)が約1kmにわたり土砂に埋まったと記されています.ここで出てくる植竹という地名は,「今昔マップ on the web」 で明治時代の地図を見ると,現在の緑井八丁目あたりと考えられます.その地名は,下図左側の沼田郡緑井村絵図(※2) 広島県立文書館所蔵(竹内家文書 198801-1907)にも記され,植竹の定用水(八木用水)は扇状地の下流側にあることがわかります.現在も定用水は存在し,その位置は現在と大体同じで谷の出口からは離れています.また,記述には山抜という表現が出てきますが,これは土石流と崖崩れのいずれかの意味を示します.実際,扇状地の下流側にある定用水が約1kmにわたり広く土砂に埋まり,崖から離れている場所にあることから,崖崩れではなく土石流だったと考えられます.
その他の文献についても考えてみます.加計室屋旧蔵文書「旧記万覚書」(※3)によると,「文化元年五月十三日洪水,沼田郡あぶ山つへ出,八木辺地損多し,河戸より下モハ地損流家等多ク,御城下橋々素り破船等も有之,船頭流死致し候由,尤寛政八年辰洪水以来之大水ナリ」と記されています.その中で,文化元年に「沼田郡あぶ山つへ出,八木辺地損多し」とあるので,桑原家文書(※1)の記述内容と同じです.つまり,文化元年(1804)旧暦5月13日に起こったことがわかりました.ちなみに,あぶ山とは阿武山のこと,つへとは土石流を意味します.この時,河戸(現在の安佐北区可部の西側:安芸亀山駅付近)より下流側,そして,広島城下で洪水の被害が発生したとのことです.これは大田川の氾濫です.この時,隣村の相田村でも洪水被害(安川の氾濫)が報告されています(※4).さらに範囲を広げてみると,同じ日に現在の山口県萩市でも洪水が起こっています(※5).加計室屋旧蔵文書「旧記万覚書」(※3)では,安芸国と石見国で甚大な被害をもたらした寛政八年(1796)の水害と比較していることからも,規模の大きな水害だったことが伺えます.
一方,最初に紹介した桑原家文書(※1)には犠牲者の記述はありませんでした.しかし,谷の出口から離れた定用水が土砂に埋まったことを考えると,2014年の土石流に匹敵,もしくは,それ以上の規模の土石流だったかもしれません.もし,当時,谷の出口付近に人家があれば当然被害を被ったと考えられます.実際には,上の空中写真に示すように,戦後しばらく扇状地の上流域に人家はありませんでした.つまり,高度成長期以降,住宅地が扇状地上流側へ拡がっていったことが土石流で被災する可能性を高め,2014年の土石流災害に繋がったと考えられます.
※1 桑原家文書(200001‐68):広島県立文書館所蔵: https://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/monjokan/saigai-sub01-02-02.html
※2 沼田郡緑井村絵図(竹内家文書 198801-1907):広島県立文書館所蔵
※3 加計室屋旧蔵文書「旧記万覚書」:加計町,加計町史資料編Ⅰ,p.536, 1999.
※4 相田村洪水損所取繕 銀夫積帖:横山雅昭,相田地区辺の郷土史メモ,p.137-138, 1994.
※5 山口県災異誌:久塚清隆,下関測候所,400p, 1953.