このサイトは,福岡県筑後地方の耳納山地(久留米市,うきは市)で起こった過去の豪雨による土石流災害を記憶に留め,将来必ず起こる災禍に備えるために作成されました.耳納山地北麓では江戸時代以降の土石流災害の記録が残り,江戸時代には享保5年(1720)と享和2年(1802),戦後には昭和21年(1946)と西日本大水害の昭和28年(1953)に大規模な土石流災害が発生しています.さらに遡ると,室町時代の山汐伝承も残っており,土石流災害の歴史が耳納山地に刻まれています.地元では,昔から山汐(やましお)と呼ばれて言い伝えられてきました.
しかし,昭和28年(1953)以降,大規模な土石流災害は起こっていません.当時を記憶する方々の高齢化が進んでいます.そのため,土石流災害の記憶が風化しつつあり,このままでは防災意識が低下していく恐れがあります.災害はいつも起こるわけではなく,何も起こらない空白期が長かったりすることもあるので,災害の記憶が風化した頃に災害が起きることが多いと思います.そして,長い時を経て災害が起きてしまうと,「まさか,ここで起こるとは思わなかった・・・」となります.これが,どの地域でも繰り返されています.
このような背景から,地域防災で大事なことは,災害が起こって防災意識を高めることではなく,災害が起こっていない空白期に防災意識を高め,災害に備えることです.そのためには,お住いの地域に関心を持ち,過去にどんな災害が起きて,どれほど酷い目にあったのかを知り,わが身に降りかかってくる災難をイメージできるように学習することが大事です.そして,世代を超えて,災害を風化させない継続的な取り組みも忘れてはいけません.
一方,土石流の危険がある谷に沿って砂防堰堤が整備されている地域では,土石流による災害リスクが大幅に低下すると考えられます.しかし,想定を超える土石流が発生した場合,砂防堰堤が被害を軽減することは期待されますが,完全に防いでくれるとは限りません.実際,砂防堰堤の規模や老朽化なども関係して,破壊されたり,土砂が堰堤を超えたりして下流の地区に被害を与えた事例があることも事実です.このことから,土石流を引き起こす谷がある地域では,砂防堰堤がある程度災害から守ってくれることは認識しつつも,その存在に安心せず,最大級の豪雨とそれに伴う土石流に備えて,しっかりとした防災対策を立てることが重要です.
ここでは,50名以上の犠牲者を出した享保5年(1720)の土石流災害の記録「 壊山物語 」を紹介します.享保5年の豪雨は,当時の古文書などの記録から,現在の福岡県筑後地方中心に,佐賀県の背振山東部から大分県日田市にかけての東西の広い範囲に深刻な災害を引き起こしたことがわかってきました.特に,東西に延びる耳納山地に沿って大きな被害が出たことが,壊山物語によって明らかになっています.壊山物語を含め,当時の古文書等の記録から,被災状況,被災地の地域的な拡がり,気象状況(豪雨を引き起こす梅雨末期の典型的な気象状況)が明らかになってきたので,気象庁が命名している豪雨事例と同様,江戸時代の事例についても
名付けることにしました.事例の命名でよく使う言い回しに倣って,「享保5年7月九州北部豪雨」と呼ぶことにします.
このサイトでは,耳納山地の山麓地区(うきは市,久留米市)にお住いの方々を対象に ,今後,耳納山地で起こる土石流災害に備えるための学習資料を用意しました.耳納山地北麓の各地区の災害リスクを住民の皆様に知ってもらうため,土石流災害に見舞われた当時の村落の位置をハザードマップ上に表示しました.また,お住いの地区の災害をイメージできるように,当時の災害の特徴についても説明を加えました.その元史料として,壊山物語の原文と翻刻文も公開しています.

享保5年(1720),梅雨末期の旧暦6月21日(新暦7月26日)に猛烈な豪雨(享保5年7月九州北部豪雨)が発生し,耳納連山で大規模な土石流が発生しました.その記録が,うきは市安富の西見家の古文書「壊山物語」(うきは市立浮羽歴史民俗資料館所蔵)に残されています.災害の記録者は不明ですが,耳納連山の西から東へ山麓の村々を訪ね,被災記録を残しました.明瞭に記された当時の記録は,今後確実に発生する耳納連山の土石流の特徴や予想される被害状況の具体的なイメージを与えてくれます.
その前文には次のように記されています.「この度,筑後耳納山で起こった甚大な山汐でどれほどの被害になったのかを調べるために,村々を訪ねて回り,その様子を物語に記す.この山は,御井郡の高良山からの嶺が6里(24km)ほど連なり,山本,竹野,生葉の3つの郡にまたがっている.昔は屏風山,今は耳納山と呼ばれ古城が多くあるが,ここでは省略する.御井郡には山汐がなかったが,山本郡の7つの村より東側の被害が酷かった.そこで,この物語では山本郡の七ヶ村よりも東側の被害状況について記す.」
壊山物語によると, 山本郡の七つの村(現在の久留米市草野校区)よりも東側に位置する竹野郡(久留米市竹野・水縄校区),生葉郡(うきは市福富・御幸校区・旧星野村)で被害が甚大でした.特に,当時の安富村,屋形村,延寿寺村では,土石流の直撃で,家屋のほとんどが全壊し,50名以上の犠牲者を出す大惨事となり,遺体の身元がわからないほどの悲惨な状況だったと記録されています.その記録には,首のない我が子を抱いて必死に介抱する母親の様子など,聞くに耐えがたい悲話も残されています.一方,土石流の特徴,天然ダムの決壊(谷の上流部に溜まった土砂が時間が経って決壊する現象)なども詳しく記されており,将来起こりうる災害のイメージを具体的に与えてくれます.
冒頭でも述べましたが,近年起こったどんな災害も,「まさか」,「想定外」といった住民の意識があり,避難行動以前に地域の災害リスクを十分理解できていない現実があります.実際には,土砂災害警戒区域などの災害リスクが既に公表されていますが,これだけでは災害の具体的なイメージが沸かず,避難行動に繋がりにくい現実もあります.また,災害は同じ地域に頻繁に起こるわけではなく,人間の寿命の中で災害の経験を生かすことが難しいこと,長い歴史の中で災害が起こっていても,その伝承が途絶えてしまっていることもあります.このような現状では,災害を具体的に想像することができず,防災対応力の向上に繋ぎにくいものと考えられます.
災害をイメージできるようにするために,VR技術のような最先端の取り組みが広まりつつありますが,一方で地域で起こった過去の災害の記録・伝承を掘り起こす取り組みも忘れてはならないと考えます.過去の災害の記録には,家族を失う悲しい出来事,田畑や住み慣れた家が失われて途方に暮れる人々の苦しみなどが含まれていることがあります.そこから悲惨な状況を感じ取り,そのイメージから防災意識を高め,来るべき災害に備えることは可能ではないかと考えます.
その具体的な取り組みでは文献の掘り起しが必要です.各地の図書館には,地域の災害記録を含む文献があります.また,古記録,古文書の中に,災害記録,その後の普請などの復興の記録が数多く残されています.しかし,そのような貴重な資料は,紙媒体として,また,マイクロフィルムの中に眠っていることが多く,よほど深刻だった災害以外はインターネット上に出てきません.民家の蔵に忘れ去られたまま積まれていることもあります.つまり,多くの災害伝承が埋もれてしまっていることを意味します.残念なことに,水害や虫食いで破損した史料も結構あるようです.何とか災害史料を見つけ出したとしても,江戸時代以前の古文書はくずし字で書かれていることから,その解読には大きなハードルがあります.「過去の災害を学び,防災に活かすこと」はいろんな場面で叫ばれているフレーズですが,そのこと自体が実は簡単ではないことがわかります.
以上の背景から,本取り組みでは,壊山物語をはじめとして,古文書・古記録を発掘し,その解読を通して,風化して消え去る恐れがある災害の歴史的事実を復活させること,また,災害の特徴を電子情報化して誰でも検索・学習できるようにする活動を行っています.その活動は地味で地道で目立たないものですが,記録・伝承の発掘が積み重なっていくことで地域防災の大きな原動力に繋がると考えます.
以上を通して,地域住民が災害リスクを再認識して,防災意識の向上に繋がる仕組みを作ることを目指しています.今後確実にやってくる災害に備えて,このサイトで得られる過去の災害の情報や知見を,地域の災害学習会や小学生や中学生向けの防災教育に役立てて頂けると幸いです.